「考える」という言葉

考えるという言葉は非常にトリッキーだと思う。

各用法が共通の意味を意外と持っていない。想像以上にお互いの意味が関連していない。だから「考える」という言葉を他人が使った場合、その意図しているところを理解するまでにかなりの時間がかかる。

 

加えて、それぞれの用法はそれぞれ関連する作業の本質に関わっている。だからどうにも作業が苦行になる傾向があるのではないか。その場面における「考える」という言葉が、何を意味しているのかを理解していないから。

 

以下では僕がこれまでに出会って整理した「考える」の用法を列挙する。

 

高校数学の教師がよく使っていた「自分の頭で考えて解法を見つけなさい」という発言:
具体的には、問題文の変数にいくつか具体的な数を当てはめてみて、規則性が見えたらその規則に狙いを定めて、背理法帰納法で証明するか、既知の式変形で求められた形式まで持ってく試行錯誤を指す。ということに気付いたのは予備校で一流とされる数学講師の授業を受けたときだった。それまでの数学教師はそのことについて明示的に教示してくれなかった。

 

ある翻訳者は「考えるとは、第一には言葉にすることだ」と言った。これも最初は無茶苦茶な言いかえだと思ったが、とりあえず案を記号で書いて間違ってたら訂正する(文章の下書きや、変数名を付けるときなど)というプロセスは確かに第一には言葉にすることだろう。

 

線形代数で行列をやっていたときに友人が言った「行列が大事というより、基底と言う考え方が大事」:

上記2つとは違って、発想法を指す。この例では、「空間を定義したときに、その空間の中に存在して、しかも組み合わせるだけでその空間を余すところなく全て表現できるようなベクトルが存在する。だから、それ以外のベクトルは冗長だということで、一切無視しても構わない」という内容を表している。この考え方は(1,0)や(0,1)のようなほぼ自明なベクトル(x軸やy軸として暗に高校から使っていたもの、といっても正規化されてるが)だと何の感慨もないが、フーリエ変換の話で基底がsinΘ、sin2Θ、...でも同じ議論ができる、という段になったときに致命的に大事な発想法だとやっとそこで重要性に気付ける。というか、この発想法を知らないとどうしてsinΘやsin2Θの一次結合で波形が表せるとかいう話が出てくるのか一生理解できない。

 

統計学の授業で教授が言った「マージナルな値のときに標本数を増やせばH0を棄却できると思いつかないということは、統計学の考え方が身についていないということです」:

ここでは、思い巡らす順序のことを言っている。チキンラーメン→卵と言ったような連想をするように、マージナルな値→主張したいことがギリギリで主張できないんだから、主張できるように強引な方法を取る、という順序で考えるのは研究者なら当然、ということを言っている。

 

 この「思い巡らす順序」という意味での「考え方」は特筆すべきだと思う。体系的に知識を習うとはどういうことなのか、ということの答である気がする。確かに、ループと言ったら計算量とスコープ、のように条件反射で思い巡らす順序が僕の場合は定まっているし、それを個々人の考え方(個々人が思いつく順序)と言っても差し支えないと思う。

 

 

以上。あなたの出会ってきた「考える」はリストアップされていただろうか。