一般的に勉強と呼ばれるものを、知識決定は包含する

三宅さんの話を聞いてから、勉強と知識決定の違いについて考えていた。

 

自分は昔から、大量の情報をバーッと見せられると慌ててしまって何も覚えられない、ということがよくある。それは特に大学で頻発して、とても1学期では読みきれない莫大なテキストを使うようになってから、問題として克服できていないままだったように思う。

何度も苦労しているのに、問題として克服できていないままだったように思う。

 

勉強、と聞くと自分はどうしても、文章や単語など、一般に「知識」と呼ばれるものを暗記することを思い浮かべてしまう。

 

10ページなり20ページなりの教材が手渡される。それは既知の知識未知の知識で構成されていて、既知の知識が使えるかを確認しながら未知の知識を取り込んでいく…そういうプロセスだったように思う。

 

これは人工知能の枠組みからすると、目的が固定化している。

 

AIの枠組みでは後続する意思決定や行動決定に結びつかないものは知識ではない、という明確な線引がされている。

 

単に実装上そうならざるを得ないだけだ、という意見もあるだろう。ほんとうは実装時に予想していないもの(実装時に「知識」として認識していないもの)も知識として取り込めたほうが、例外により柔軟に対処できるようになる。

 

それは分かる。

だがそれは一般的な「目的」を遂行するための勉強ではなく、試験勉強ではないだろうか?

 

カロリング朝を覚えたとして、試験では「カロリング朝の成立年は」「後続する王朝は」と例外がバンバン出る。このときは何となく取り込んでいた知識が役立つだろう。

でもこのような知識の取り込み方は試験以外に役に立つだろうか?

 

一般的に歴史の目的は「現状に似た過去事象からよりよい認識(知識決定)や行動決定を学ぶ」で間違いないと思う。そうであればカロリング朝について学ぶべきは「この王朝の盛衰は××王朝と似ている」「この王朝の▲▲王の手法は●●において有意義である」「この王朝は〜〜の貿易に目をつけた」「この理念はもっと洗練できる」といった、将来予測や組織編成、商業戦略や理念形成ではないだろうか?

 

ここの方向性について、高校までの教育はかなりミスリードであったように思う、とかいう批判はまあ横に置いておいて、このような

 

意思決定・行動決定のための知識決定 (目的ドリブン型の学習)

 

は、一般的に勉強と呼ばれるもの(例外対策を目的とした)より、もっと広いものなのだろう。

 

先行論文を読む時には「何がこの論文の背景か」「手法の新規性は何か」「自分で作る(書く)としたらどこを改良するか」の同定を目的とする。

家族と話すときには「何が相手を行動させる決め手となったか」「どこまで裁量があるか」の同定を目的とする。

 

知識決定と呼ばれるものは、かなり実生活に有用な考え方だと思う。

それに気づいたのもまた、目的が「実学を学ぶ」となったからか。