感動の値踏みを禁じるべき場面と、感想の目的について

映画『ショーシャンクの空に』を見た。以下はネタバレ無しで考察する。

 

Amazon.co.jpにはこの作品に対して600強のレビューが集まっている。500強が★5を付け、10人ほどが★1を付けている。★1つのレビューだけ全て読んだ。かなりの動機や強烈な感情がないとそのような評価は下せない、だから読む価値が★5に比べて相対的に高いと信じているからだ。

 

 

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 ★1つのレビュー群は乱暴にまとめれば「この作品で得られる感動は操作されたものであり『より質の高い(操作されていると感じさせない)感動』がほかの映画で得られる。」という主張を様々な表現に乗せて書き綴っている。キャストの表情にその理由を求めたり脚本に言及したりとロジックの種は多様である。

 

「この映画作品から得られる感動は意図的に操作されたものであり、こんなもので感動するなど傀儡も同然で馬鹿馬鹿しい。××のほうが出来が良く視聴すればもっと大きな幸福感を得られる」と主張するひとびとは、批判対象になっている作品を視聴した後の観客の満足度、それと推薦作品視聴後の観客の満足度を冷静に推し量って比べていると言える。

 

 そうして弾き出された比較結果を活用するためか、彼らはレビューに「××のほうがいい」や「これは鑑賞するだけ時間の無駄」と言った先人としての判断を残す。これらの判断は類似の商品を探しているときや購入前に一種のフィルタリングを行なう際に確かに有益である。

 僕自身も類似製品の比較検討をするときは「▲▲社の製品のほうがAとBとCの点で優れている」などの意見を真剣に参考にする。★1つのレビューがアマゾンでの購買活動に有益に働いている可能性は極めて高く、彼らのレビューの意義を否定する気は毛頭ない。

 

しかし「彼らに言わせればクソな作品」を見て感動した観客が確かに存在する。

彼らの存在をどう説明を付けたらよいだろう。

彼らはそんな糞に対して感動すべきではなかった、彼らの感動は底の浅い邪悪な映画監督が書いた低能な脚本と彼が指示した下劣な演出によって無理矢理にでっち上げられた偽の感情であり、残す価値ましてや尊ばれる価値など一欠けらも持たないのでその根源から発生を絶つべきである、ときっぱり言い放つべきだろうか。あるいは、こんなゴミに対して感動して涙を流すような人間は経験が足りず未熟なので、もっと良質な映画をたくさん見て経験を積んだほうがいい、とでも言うべきだろうか。

 

 

 

 

 

これは感動の値踏み(評価、査定、優劣判断)という行為、主に創作作品の受け手側が行って感想(レビュー)に書かれることで私たちの観測下に入ってくるタイプの行為である。

 

私は映画監督について詳しくないので、創作者側がこのような行為を例えば競合作品や先行作品に対して行っているのか知らない。ただいつこのような行為が目に入ってくるのかと言えばやはり受け手側による★1やもしくは★5のレビューである。

 

 

僕がこの記事で行ないたいのは感動の値踏みという行為の批判ではない。

行ないたいのはその機能を真に有用な形で整理することである。

 

感動の値踏みは上述したように、

  1. 複数の作品を検討した後で、
  2. それらの満足度に序列を付けることで、
  3. 後進をより満足度の高い享受様式に誘導するために行う行為である。

よって根本的に大事な特徴として、この値踏みはその(低くみなしたほうの)作品で既に十分なほど感動している者に対して伝える価値がない。

 

自分が十分に満足できなかったもので既に十分に満足している者の価値体系に対して、自分が十分に満足できたもので勝負を挑むのはリスキーである。どうだったBのほうがやっぱり良かったでしょう、はあ、でも何か演出が好きになれなくて。なに、演出だと、そんなところが気になって作品自体の価値が分からないのが三流の証なんだよ以下略。自分にとって不足なもので相手が満足していることは、必ずしも自分にとって満足なものならば相手はもっと満足できるという帰結を保証しない。この事実を重く考慮しないために、否定したあとで相手にとっておきを押し付けるというリスキーな行為は止まない。見ていて不思議なほどに止まない。

 

 そんなことをするより相手が良いと思ったその作品の感想について意見を交わすほうがよほど良質なコミュニケーションになる。たとえその作品について自分は何にも良いと思わなかったとしてもだ。

 

 注意深く見ていれば何から何まで全て否定できる作品などそもそも確率的に存在が怪しいわけで、相手と作品に対しての好意の度合いを共有できるような、もしくは共感を得られるような論点が必ず見つかる。そもそも感想の社会的な目的とはそうではなかったか。

舞台背景が良かったとか、あのシーンは画として素晴らしかったなど、探してみればいくらでも言える。ここまで来れば感想は単なる言葉遊びみたいなものである。

 

2時間という標準的な映画の長さは欠点だけで構成するにはあまりに長すぎる。言い換えれば映画とは本質的に感動を含まざるを得ない創作品なのだ。

 

もちろん、否定抜きに単に自分が良いと思ったほうも紹介してみる、というのも良いだろう。実際にはこちらのほうが気が楽で良い(それで評価が分かれたりすると喧嘩になるのだが)。

 

 書きたかったこととしては以上で完結なのだが、頭のなかをグルグルと流れる文章を文字にするのは久しぶりなので、まだ感覚が上手く掴めない。新しいプログラミング言語でコードを書いているような感覚だ。考えてみれば日本語も類義語辞典や優秀なIMEがあるかどうかで効率がまるで変わるから、執筆環境とは古来から存在する開発環境なのかもしれない。