論破について

感情の強さに妥当性を託す話し方は有効なのだろうか。

 

相手が信じていれば有効だ。根拠がなくても信頼されていれば「▲▲さんが言ってるなら」という気持ちが率先して相手を説得してくれる。

 

だが、相手が信じてない場合は別だ。普段あまり自分の意見を聞いてくれてない相手に、どうしても譲れない点(害をもたらす特定の疑似科学、たとえば瀉血の否定とか)を主張するとき、説得の是非はほぼ最初の10数秒の主張内容で決まると思う。

 

以前に、とある先輩が全く約束を守らないで(しかも社会人との約束)、関係者だった僕が社会人の人から(その先輩)はどうしたんだと詰め寄られたことがある。

 

彼は最近ちょっと自分探しのようなことをしていて、責任を負うことが苦手になっているから、申し訳ないですが時間を置いて下さい(関係者からしばらく外させて下さい)、と述べた。

 

そのときに相手方が言った言葉が今でも忘れられない。

 

「彼に必要なのは時間ではなく治療だと思います。このような行動は正常な精神状態ではできません」

 

時間にしてたった3,4秒、

そのあとに僕が述べた「いや、病気というほどのことでは。彼はとてもいいアイデアを出してますし」という反論についても「(具体的な病名)の人は(特定の期間)においては通常かそれ以上の能力を発揮します。アイデアを出せることは彼がそのような治療を必要としている病気にかかっている可能性を排除しません」と10秒ほどで論破された。

 

あの議論を続けることもできただろう。ただ僕はそこで納得してしまった。

 

 

もしあそこで先方が僕の「時間が必要」論に対して「でもねえ…」などの曖昧な態度で接していたら、僕は意見を変えなかった。その後に続ける具体的な事例をいくつか持っているつもりだったし、それで納得行かなかったにしても「彼を見守ってあげましょう、ね?」という根拠の無い感情論で押し切っていたことが想像できる。

少なくとも当時の僕はそれ以外に議論のしかたを知らなかった。

 

「こっちのペースに持ち込めばきっと納得してくれるだろうに」と思いながらも全くそこまで辿りつけずに相手が好き勝手して結局自滅する、みたいな例を見ることがある。

僕は彼と話すまで、その先輩が病気(と言われるほどの症状)だと認識していなかった。本当に相手の行動を変容させたいのなら、冒頭10数秒、そこで相手の認識に風穴を開けなければいけない。